「結局ゲームは才能だろ」という言葉に隠された真意
こんにちは。めがねです。
ゲームなんて才能だという話をよく耳にしますが果たして本当なのでしょうか?
この言葉の裏には実は多くの挫折と苦悩があったんです。
たかし...スマブラDXプレイヤー。結構上手い。
えりか...スマブラDXプレイヤー。まあまあ上手い。
あーあ、どうしたらいいんだろう。
何かお困りのようだね。
あ、たかしくん。なんだか久しぶりな気がしますね。
私はそのあいだもずっとやってたけど全然成長できなくて...。
やっぱり下手くそが努力しても無駄なんですか?ゲームって才能なんですか?
ん?才能?ピクッ
\ダッシュジャンプミラクルチョップ!!/
キャ!
ちょっと!唐突なシークの空前はやめてください!
ごめんつい。でも、確かに今の攻撃を横変更してるようじゃまだまだかもしれない。
ゲームが才能かと言われたら決してそうではない。今日はこの言葉に隠された真意を紐解いていくよ。
【見えない壁】
初心者と上級者のあいだには「見えない壁」のようなものが存在してるのはわかるかな?
見えない壁...?
いや、それはそりたつ壁。
この見えない壁ってのは、俗に言う「実力差」や「経験」ってやつが集約されたものだね。
言ってしまえば「結局ゲームは才能だろ」という言葉は、この壁を乗り越えられなかったか壁に登ろうともしていない人たちのセリフなんだ。
ちょっとイメージがあやふやですね。
そういうと思って図を用意したよ。
そり立ってんじゃん。
例えば何かに挑戦したとする。最初は知識をすんなり吸収できて目に見えて上達するけどやがて壁にぶつかる。
ねえこれそり立つ壁でしょ。
壁にぶつかって成長がとまったとき、踏ん張りがきけばいいけど多くの人は途中で諦めて壁を登ることをやめてしまう。
ミスターサ○ケみたいに?
登ることを諦めてしまった人らには「努力が報われなかった」という事実だけが残る。やがてその事実は「結局ゲームは才能だろ」と俯瞰するための免罪符に使われるんだ。
つまり...?
「ゲームは才能」という言葉は、途中で挑戦を放棄した人やそもそも挑戦してない人が「ゲームは才能であってほしい」と思い込むために使われる言葉なんだ!!!
さ、刺さる~!!!手頃に浮いたフォックスにシークでDA連打するくらい刺さる~!!!
登ろうと挑戦した人が言うならまだしも、挑戦すらしてない人が言ってたら横スマを当てていい。
要するに何かをしないための理由付けってわけですね。
そうだね。「俺はあえてやらない、本気を出さない。」という姿勢が垣間見えるね。
もしやってできなかったら、次は「できない自分」という大きくて面倒な問題と向き合わなくちゃなりませんからね。
目の小さな問題を片づけるより、どうにもならない大きな問題を嘆いていた方が楽だもの。
これはゲーム以外でも当てはめられる。結局男は顔だろ、世の中は金だろ、学歴の良さなんて家庭環境次第だろ。とかがそうだね。
まるでそれさえあれば自分は成功したかのように言うけれど、例えそれらがあっても挑戦しない者に壁は登れないよ。
宝くじが買った人にしか当たらないのと同じですね。
「才能が~」とかこつけて何もしない人が仮に才能を手に入れても、次に出てくるのは「キャラが~」「コントローラが~」と第二、第三の理由だよ。
本当に才能で悩んでいるんじゃない。どうしようもないことを嘆いて何もしないことへの免罪符にしてるだけなんだから。
このブログにしてはいつになく厳しいですね。
【まとめ】
上級者は努力だといい、初心者は才能だという。シンプルな違いに見えるけど、考え方の大きな違いが深淵に垣間見えないかい?
たしかにそうですね。
どんなに努力していても、時には圧倒的な実力差や理不尽にコントローラーを投げたくなるかもしれない。
凡人が努力しても無駄なんだ。結局ゲームは才能なんだと嘆きたくなる時もあるかもしれない。
そんなのしょっちゅうですよ。
でも君はコントローラーを投げずに、いや投げたとしても再び手に取って戦っている。
いいかい?
強さというのは才能で決まるんじゃない。くじけずにコントローラーを握り直した数で決まるんだ。
たかしさん…。
道は険しいかもしれないけれど、わたし、頑張ります。
その心意気だよ。
だからえりかちゃんも、一緒に目指そう...。
SASUKEの...完全制覇を!!!
(おわり)
【追記】
終わってなかった!
記事を公開したら「わかりにくい!」「クソゴミ!」「生ゴミ!」「可燃ゴミ!」と、様々な反響をもらったよ。
ゴミに対するこだわりがすごい。
なので少しだけ補足させてもらね。
まず念頭に置いて欲しいのは、この記事は才能と努力のどちらが大切かを決める記事ではないということ。
そして今回の記事で言いたいことはズバリ、
「ゲームは才能」という言葉の裏には、セルフ・ハンディキャッピングが課せられている!
ということなんだ。
セルフ・ハンディキャッピング(Self-handicapping)とは、自分の失敗を外的条件に求め、成功を内的条件に求めるための機会を増すような、行動や行為の選択のことを指す概念。エドワード・E・ジョーンズらによって提唱された。自分自身にハンディキャップを付けること、という意味である。
wikiより⇒ セルフ・ハンディキャッピング - Wikipedia
要するに「目下にあるどうにかなることより、どうにもならないことに原因を求めることで何かをしないことへの免罪符にしている」ってことさ。
「強くなりたい」
↓
「でも頑張って強くなれなかったら恥ずかしい」
↓
「才能が無い」
恥ずかしがっている暇があるならいくらでも強くなれるのに、才能という言葉を持ち出してできるはずのことすらしなくなってしまう。
こんな深層心理が隠されているという話だよ。
テスト前に掃除をしたり漫画を読み始めるのと同じですね。
心理学用語では「自我防衛機制」と呼ばれているらしいよ。
「努力してできない自分」と向き合うのはとても辛いですからね。
たぶんここらへんは自意識の問題も関係してくるんじゃないかな。
普段のなにげない言動から、その人となりが紐解ける気がしますね。
追記は以上。
...スッ
(本当におわり)